早いもので、もう11月ですか・・・
先日、東京にて、家づくりの会と関西の建築家諸氏の
交流会をしました。
中でも浅草の善照寺(白井せい一設計)は保存がよくて
建設当時のままを留めていました。
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私の小説より・戦う住宅
ある彫刻家の家~
店のママは色白で小柄で澄んだ瞳に寂しげな憂いを漂わせていた。
常連達は、あたかも白い蘭に群がるミツバチのようだった。木下もまた、飲み過ぎてはカウンターに顔を埋める日があり、そういう時はたいてい、「朝だよ、メキシコに太陽が昇ったよ。」とママに耳元でささやかれ、じんわりと甘い息をうなじに感じて、はっと我に返るのだった。
「ひろこ」や木下の事はこれぐらいで、錦織正三の家について述べる・・・
正三の家は、戦後、父の富松が始めた骨董店を母の澄枝が継ぎ、土産物も売っていた。家のほうは四十年ほど前に父が建てたが、既にかなり老朽化し基礎はヒビだらけだった。さらに土台はあちこち腐り屋根は所々で雨漏りもしていた。
敷地は、おおよそ三分の二程度が自分の所有で残りは借地。他人の土地にはみ出て、店と母屋とアトリエと古い倉庫の四棟があった。
正三は中背で痩せていて、群青のジーンズがよく似合った。苦学して美術大学の彫刻科を出て、国からの奨学金でパリに半年ほど留学した経験があり、家の計画を思いついたのは彼がちょうど三十歳の時だった。
彼はエレキのベースギターを学生時代からやっていて、時々地元の小バンドに出て共演することも珠にはあったが、余り気乗りもせず人見知りをするせいか、なかなかバンド仲間に馴染めなかった。
この彫刻家は、小型の青い車を大事にしていたが、その車のマフラーやドアの内側は長年乗り回したせいか相当に傷んでいた。彼はこの車の計器類の間に自分で作った小さな銅の蜥蜴(とかげ)の彫刻を嵌め込み悦に浸っていたが、この蜥蜴はグロテスクでまるで生きているようだった。
つづく・・・
